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医者としての森鴎外 - ブログ

森鴎外(本名森林太郎)が医者だったことはよく知られていますが、その詳細はあまり知られていないでしょう。

彼が医者になったのはなんと18歳の若さです。11歳で2歳サバ読んで今の東大医学部に入学していたというのですから、当時の教育システムがまだまだ未熟だったのですね。

松本歯科大学名誉・特任教授の笠原浩先生の著述から、森に関する興味あるビタミンB1に関する文章を見つけましたのでここに記載します。

昔脚気は「江戸患い」と恐れられていました。当時地方ではまだ玄米食だったが、江戸では白米を食べるのが主流となり、多くの人々が脚気を患い、参勤交代の武士たちも、江戸に行くと脚気になるので、「江戸患い」と呼ばれたのです。同様なことは大坂でもあったらしいです。

当時の人々の食生活はおかずがほとんどなくせいぜい漬物程度で、その代わり白米を5合も食べていたそうです。今では脚気の原因がビタミンB1不足であることは周知の事実で、現代人は多くのおかずを食べるので、白米が主食でもビタミンB!不足にはなりません。

脚気の原因は明治期になってもわかりませんでした。そして毎年1万人もの死者を出していました。とりわけ惨禍が生じたのは軍隊でした。貧しい地方から徴兵で集められた若者は、白米に大喜びししたものの、次々に脚気で倒れてしまったのです。

欧米の軍艦では脚気の発生が見られないことから、海軍軍医高木兼寛は白米食で航海に出た船と洋食で航海に出た船を比較し、脚気発生率がそれぞれ23.1%と1%であったことから脚気は食事内容によるものと明らかにした。

ところが森ら陸軍軍医は海軍への対抗意識もあり「脚気伝染病説」を奉じて白米食に固執した。その結果、日清戦争では戦死者1417人に対して病死者は11894人。うち脚気による死者は3944人で最多だった。続いて日露戦争では部下が日清戦争の経験を踏まえて麦飯採用を上申したが、森は全く取り上げなかった。この戦争の死者は47000人だったが、脚気による死者は27800人だったと記録されている。
結局陸軍が白米飯をやめ麦3割の麦飯を採用するようになったのは、海軍に遅れること30年であった(1913年)。

森はそうした惨害の責任をとることもなく昇進を続けた。地位の高い医者がまともな医者とは限らないのは今も昔も同じです。いやむしろ高い地位を狙う医者ほど視野の狭い人間なのかもしれない。1908年に臨時脚気調査会が設立されるとその会長に就任し、16年間の在任中「白米原因説」を否定し続けたのです。

1912年鈴木梅太郎が米ぬかからオリザニン(ビタミンB1)を抽出して、その欠乏が脚気の原因であると証明したにもかかわらず、森は「脚気菌」説にしがみつき、東大農学部出身の鈴木を見下し罵倒し続けた(森は東大医学部卒)。

医者としての森の活動は如何でしたか?あまりにも非科学的で頑固でレベルが低く、権威をかさに科学を愚弄する行為です。しかしこのような人間が地位を上り詰めるのです。そうさせている社会を我々は知らずに作っている、もしくは仕方なく抵抗することなく認めているのです。昔も今も。

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